こころのメッセージ
かけがえのない地球と母なる自然の存続を願う私の祈り
私の日本はあまり知られていない日本である。私は「この土地の神秘的なオーラ」を追い求め、ほとんどの写真家が足を踏み入れないような所へとひたすら突き進む。
5大陸の国々を旅してきた私にとって、日本には 「他にはない、時代を超えた美しさ、そして手つかずのままの様々な風景が存在している」のがわかる。
それは五感を魅了する触れることのできない趣。梵鐘の音やお香の香り、セミの鳴き声。竹林のざわめき、高山の水田、原生林の壮大さ、モンスーン嵐の雨、予測不可能な台風、息を呑むような海の景色、そびえる山々の山頂、人の生命力を刺激するものたち。
緯度15度の範囲をカバーする、2,000マイルに及ぶ調色板のような日本。刻々と変わり行く地形、予測不可能な天候と、そこから醸し出される雰囲気。北の雪と氷、そして南には半熱帯のビーチやマングローブと、写真に収められる自然の素晴らしさは無限大なのだ。 この国には、ヨーロッパ全土で見られるよりも多くの種類の植物や花がある。
私が写真で表現したいのは、固定されたモノの風景ではなく、日本の四季の移り変わりのダイナミックな表情や情熱、そしてドラマだ。天と地が一体となり、質感、色、光によって生み出される忘れられないイメージ、一瞬の驚くべき美しさを描くのだ。
一つの地域にとどまらず、列島全域のそれぞれの季節を表現することを目指してきた。長い間、四季を追い求めて撮りためた私の写真に刻まれた息を飲むほど美しい日本の姿が、このかけがえのない自然の宝庫である国の壊滅を阻止できるまでの間だけでも、人々の脳裏に留まることを願ってやまない。
「醜いものなどはない。私の人生で醜いものを見たことはない。
物の形がどうであれ、光と影と遠近法が常にそれを美しくするのだから」
ジョン・コンスタブル 1776-1837
草の葉に降る雨、山頂の静寂で険しい道、海岸に打ち寄せる絶え間ない波、目的もなく風に揺れる竹藪、雲海の上に昇る太陽、近いようで遠い月。
その質感や音色、形や重みなど、自然が持つ貴重な宝や無尽蔵の富、そして刻々と変化する趣、視覚的な感覚は、私のライフワークのテーマなのだ。
赤い地平線に最初の光が差し込む。手前の原始的な湿地帯には、霧が渦巻いている。カメラを構え、感覚を研ぎ澄まし、シャッターを切る。二度と戻ることのない時の流れの中へと過ぎ去る儚い一瞬が切り取られ、永遠となる。
これは、動き続ける自然と、その奇跡の本質をレンズでとらえようとする作業の複雑な相互作用の一局面である。季節は、誰も待つことなく、絶え間ない姿を現す。その流れは正確であり魅惑的だ。カメラもフィルムも自身も、自然の肝要な生命機能の畏怖の念の前では無価値なものでしかない。私たちは、自然という現象の抽象的な空想や気まぐれな雰囲気を、選ばれた瞬間に記録することしかできない粗雑で単純な道具にすぎない。 この絶え間ない変貌は、不思議なほどドラマチックで、カメラを向けていて決して飽きることはない。私は、何年も職業道具として使ってきた、古く風雨にさらされ、よく落とされてきた6x6カメラを使っている。私の気まぐれな行動と、変化に富んだ趣、そして一瞬を逃さず撮影してくれるこのカメラに、私は安心感を覚える。このようなベテランの相棒を操ることは、瞬く間に変化する風景を撮影する際に最も重要なことである。
私は写真家として日本列島を旅してきた。日本は壮大な畏敬の念を抱かせる国であり、現代の盲目的な進歩を免れた人里離れた奥地に初めて足を踏み入れた瞬間から、私を魅了した。 それ以来、この国の多くを見てきて、国の生物多様性と独自性の根源である驚異的な自然の豊かさに対して深い尊敬と理解を深めてきた。
山奥でテントの中で夜明けを待っているとき、私は時折、目を覚まして自然の音に耳を傾ける。真夜中であっても、季節はそれぞれの物語を語ることを知った。
警告を囁くような、原生林の壮大な静寂に耳を傾ける。人間の欲の残滓で溢れかえる海を見る。 声なき自然が慈悲を求め、果てしなく続く悲痛な叫びが聞こえる。生態系の破壊と世界的な汚染の悪夢に巻き込まれた無数の固有野生生物種を含む、危機に瀕した環境の尊さを守ることができない人間の無頓着さを私は残念に思い、悲しさを覚える。
ジョニーハイマス